日本で「中間」の階層がふえてきたというとき、それはヨーロッパの「中流階級」ないし「中産階級」と対比させるとどんな特徴があるか。
ヨーロッパでは、「中流階級」というとき、それは、単に社会のトップから最底辺にいたるまでの連続的な上下の序列のなかの、中間部分の人びとを意味するものではない。それは、上にいる「上流階級」と下にいる「労働者階級」の両方から、はっきりと質的に区別される独立したグループとしてみなされているのである。その区別は収入や生活水準の高さだけでなく、生活態度や教育水準、マナーや道徳観、政治意識などの点でもかなりはっきりとみとめられるようである。英国の社会と労使関係の実証研究を行なった間宏は、「英国人は、内容は各様であるが、それぞれの階級について各人がはっきりしたイメージを持っている」ことを指摘し、「たとえば労働階級の人びとは『6時頃夫婦が子供たちと一緒に食事する』が、中流階級の人びとは『6時頃子供たちに食事をさせ、夫婦は7時以後にお客などと食事をする』」という例をあげている。
「われわれ(us)」と「やつら(them)」
「中流階級」は、このようにはっきりした輪郭をもったグループとしてイメージされているだけではない。それは「労働者階級」から敵対視されていることすらある。英国社会を社会学的視点から取材した川崎嘉元のレポートによれば、労働者は「自分たちの仲間『われわれ』(us)と、資本家や経営者だけでなく技術者、ホワイトカラー、職制などを一括した『やつら』(them)とを明確に区別し、お互いに別世界の人間であり、『やつら』はわれわれを困らせることしか考えないと信じている」という。
また、英国の労働者の生活と意識を調査したツワイクは、こう述べている。「労働者は、どちらかというと中流階級が嫌いなのである。殊に自分たちと直接に接触することの多い中流階級の裾の方の層が、とくに嫌いである。中流階級の下層の者は、労働者を鼻先であしらい、自分たちが労働者より優越しているように思うことが多く、商店では労働者の金を巻き上げ、事務所では労働者に命令する。つまりこの人たちは、労働者が汗水たらして苦労せねばならないのに対して、楽で収入のよい仕事をやっている人たちである」。
中流階級にたいする労働者階級のこのような敵対意識の反面として、中流階級も労働者階級にたいしてそれなりの意識をもっている。たとえば間の調査によれば、「職員の工員に対する意識には、『卑屈』『無知』といった侮蔑的傾向が強い」という。また、川崎の指摘によれば、「英国の中産階級は、戦後『福祉国家』のおかげで、自分たちは労働者階級ほど優遇されてこなかったことに『不満』と『ねたみ』の意識をもっている」という。
法律や公式的制度の面では中流階級の人も労働者階級の人も市民としてまったく同権であるのだが、実際の社会生活のなかにはさまざまな階級差別があるようだ。工場内では職員と工員とで食堂もトイレも区別されており、街のパブでも中流階級向けの部屋と労働者階級向けのそれとがはっきりと分けられている。
このように英国の例では、「中流階級」は他の階級から区別されたイメージでとらえられているだけでなく、「労働者階級」との間に差別と敵対意識が存在するというのである。だがこれは英国だけのことではないようだ。フランスでは労働者階級の子供が中流階級の仲間入りをしようとして中流階級の子弟が通う学校に入学すると、労働者階級の子供たちから「あいつは仲間を裏切った」といってつきあいを断たれるという。
戦前日本の「職員」と「工員」ところで日本の場合はどうか。戦前の日本には、やはりかなりはっきりした区別と差別があった。
たとえば事務所の電話を「職員」は私用でも使えたのに「工員」にはそれが許されなかったとか、社宅も「工員」と「職員」とでははっきりとした差が設けられていて、「職員」の家庭では子供を「工員」の子と遊ばせなかったとかというように、単に賃金や労働条件の面だけでなくさまざまな点で差別があった。
また、居住地のうえでも、中流階級が住む山の手と、労働者階級が集まっている下町工場街との間で生活水準や生活文化の点でかなり明瞭なちがいがみられた。このような区別と差別は、戦後の諸改革とその後の社会変動のなかで大きく変わった。
「職員」と「工員」の混合組合
まずはじめに、戦後の労働組合運動がこの区別と差別を除去するうえで果たした役割を評価しなければならない。戦後公認され急速ないきおいで組織化が進められた労働組合は、日本社会の民主化を担う勢力として登場した。戦後日本の労働組合は、ここでの文脈からすれば少なくとも次の二つの点で、階級差の縮小ないし払拭の方向にむけて貢献した。
第一に、その組織が「職員」と「工員」の混合形態をとったということである。労働組合は単に工員の組織であるだけでなく、広く職員をもメンバーに加え、しかも多くの組合においては職員層が組合活動のリーダーシップを担ったのである。組合の中では「職員」と「工員」の区別はなかった。
そればかりか、組合員となった「職員」の多くは、みずからを「労働者階級」の一員と同一視した。当時は「労働者階級」こそが戦後日本の再生と民主化を担う勢力だという見方が広がり、職員層もそのような「労働者階級」の一翼をなすというように、自他ともにみていた。また、当時は職員層の生活も窮乏化していて、生活の面で工員層とかつてのような大きな差がなくなっていたという客観的な事実も、かれらの「労働者階級」帰属意識を支えていた。
このような階級帰属意識の特徴は、戦後復興が終わり「もはや戦後ではない」といわれるようになった昭和30年代にもひきつがれた。尾高邦雄らが昭和30年に東京で実施した「日本社会の成層と移動」調査によれば、肉体労働者はいうまでもなく、事務職の81%、販売職の69%、専門職の63%が自分自身を「労働者階級」に属するとみなしていた。「中産階級」帰属意識を示したのは事務職で15%、販売職で28%、専門職でも37%にすぎなかったのである。また、富永健一らの調査によれば、昭和50年時点でも「労働者階級」帰属意識の持主が71%もおり、その比率は昭和30年時点の調査結果とあまりかわらない。
身分差撤廃と「同じ社員」意識
第二にあげなければならない点は、労働組合による「身分差撤廃」闘争である。戦後日本の労働組合が熱心にとりくんだ課題として、賃金引上げや雇用確保とならんで、この「身分差撤廃」があった。
つまり、「職員」と「工員」との差別をなくせという運動である。これは賃金体系、退職金規定、福利厚生施設の利用などで「職員」と「工員」の待遇を同一にしていこうというだけではなく、「職員」「工員」という名称の区別さえ差別表現としてなくしていこうとめざしたのである。その結果、この名称にかわってたとえば「事務職」と「技術職」という呼称を設けたり、「工員」という呼び方をやめて「作業員」という名称を採用したりした。いまではおそらく日本の企業のなかで「工員」という呼称を残しているところはあまりないであろう。そしてこの「職員」「工員」間の身分差撤廃は、同一企業内における異なった階層に「同じ社員」意識をもたらす一契機となり、のちに話題となる日本的経営の「集団主義」を形成する一契機ともなったといえる。
階級帰属は「労働者」、階層帰属は「中」
こうして「職員」と「工員」という、新中間階級と労働者階級とをそれぞれ代表する二つの層の間の区別と差別はしだいにとりはらわれていった。これを階級帰属意識の点でみるならば、さきにふれたように、職員層も「労働者階級」の帰属意識をもつことによって職員と工員との同一化が進んだのだが、だからといって、階層帰属意識の点では、「下」意識への収敏が進んだわけではない。昭和30年の調査によれば、階級帰属意識の点では「中産階級」23%、「労働者階級」74%であったのにたいして、階層帰属意識に関しては「中」51%、「下」49%だった。多くの人びとは階級帰属に関しては自分を「労働者階級」の一員とみなしていても、生活程度を示す階層帰属に関しては約半数が自分を「中」だとみていた。そしてこの「中」意識は、昭和30年代後半から顕著に増加していったのである。
賃金格差の縮小
ところで「職員」と「工員」との差の払拭をさらに促したのは、昭和30年代から40年代における技術革新の展開と教育水準の向上を背景とした労働市場の変化である。
高校進学率は昭和31年時点ですでに48%に達していたが、35年には55%となり、中学卒業生の過半数が高校に進学するようになり、その趨勢はその後ますます顕著となった。そして新規高卒者の就職先をみると、昭和31年には第二次産業46%、第二次産業38%であったが、35年には第二次産業46%、第二次産業46%となり、第二次産業への就職者が増大し、しかもその中で高卒の生産労働者化が進んだ。同じ高校を一緒に出ながら、ある者は生産労働者に、別な者は事務職員になる、という状況が広がるようになったのである。学歴による身分差が、まずこのあたりから崩れはじめた。
こうした事態を反映して、生産労働者と職員との賃金格差も縮小した。製造業男子について高卒生産労働者と高卒職員と大卒職員との賃金格差を労働省「賃金構造基本調査」からみると、たとえば20~24歳の層では、昭和33年には100対104対121だったのが48年には100対92対100となり、30~34歳の層では、33年には100対115対138だったのが48年には100対102対108となり、40~47歳の層では、33年に100対141対210だったのが48年には100対132対159となった。このように、昭和30年代から40年代の間に、20歳代前半の層では高卒生産労働者と大卒職員の平均賃金の差はなくなり、高卒のなかでは職員層の平均賃金よりも生産労働者のそれの方が高くなった。また、40歳代の層でも、かつては高卒(旧中卒)生産労働者と大卒職員の間には平均賃金で約2倍のひらきがあったが、それが1.5倍に縮小されたのである。
生活様式の平準化と画一化
昭和三十年代末になると、所得水準の平準化と並行して生活様式そのものの平準化と画一化も進んだ。消費生活の面でも余暇生活の面でも、職業や年齢や性のちがいや地域の別などによる独特の特徴をもった下位文化が消滅し、大衆的画一化の傾向が顕著になったのはこのころである。たとえば衣生活についていえば、学生服を着る学生が珍しくなり、 一日で職人とわかるような服装をして歩く職人があまり見られなくなり、生産労働者も事務職員も同じような背広姿で通勤するようになった。総理府「家計調査」をみると、「職員」と「工員」との間の消費生活様式の差も昭和30年代後半から40年代にかけて消えていった。とくに大都市郊外の団地生活がそれを促した。
こうして、自分の属する職業なり階級なりに、準拠すべき文化を見いだしにくくなり、そのなかで、漠然とした「中間層」文化が、 一応の準拠枠として求められるようになってきた。そしてそのもとで、電気洗濯機、電気冷蔵庫、ステンレス流し台、ガス湯沸器、やや遅れてカラーテレビ、ステレオ、さらに応接セット、ビアノ、ルームクーラー、乗用車、電子レンジ、等々が国民の諸階層の生活のなかに入ってきた。昭和30年代中葉に顕著な展開をみせだしたこの消費生活様式のいちじるしい変化を、当時の『国民生活白書』は「生活革新」とよんだ。そしてこのような変化が、生活様式の面でも「中流階級」と「労働者階級」の差をあいまいにしてきたのである。
「中流階級」の増大ではなく「中間層」の肥大
高度経済成長期に職業威信の点でも所得の点でも上下の差が縮まって中間的な部分が肥大し、そしてその傾向は低成長期に入ってからもひきつがれているが、それは、ヨーロッパで伝統的にみられたような、「上流階級」と「労働者階級」の間に位置してそれ自身明瞭な輪郭と特徴をもった「中流階級」が成長したことを、意味してはいないといえよう。
戦後日本の社会過程の中で、収入の高さや生活様式からみて「労働者階級」と「中流階級」とを区分することは、むずかしくなった。戦前は大企業の職場などにも残っていた両者間の差別的関係は、さきにみたような事情から広く払拭された。「労働者階級」帰属意識の持主のなかにも、 生活観としては「中」の帰属意識をもっている者がかなりいる。日本社会のなかで中間的な部分が大きくなったということは、上や下の階級から区別して把握できるようなれっきとした「中流階級」が社会構成の中枢を占めるようになったということとは、まったく別のことのようである。それは「中流階級」の増大というよりもむしろ、「中間」的な層の肥大といった方が適当であろう。
輪郭のはっきりしない「中間層」
日本において肥大化したこの「中間層」は、どのような特徴をもっているだろうか。ひとことでそれをいえば、上と下の境界がはっきりしない、あいまいな集まりということになろう。
第一に、収入の格差が縮小した結果、収入の点では上下が接近して全体として中間がふくらんだため、上層や下層からはっきり区別された層として「中間層」というものをとらえだすことがむずかしいのである。
第二に、そのような収入の平準化傾向と並行して、消費生活の様式や余暇生活のすごしかたも国民全体として似かよってきたため、生活様式からみても「中間層」に何かそれらしい独自の特徴を見いだそうとしても、それはなかなかむずかしい。
それだけではない。第二に政治意識からみても、「中間層」特有の政党支持傾向や政治体制観を把握しようとしても、明瞭な特徴がなかなかつかめないのである。
この第二の点にかんしては、労働者階級の政治意識が変容して、それ自身一定のまとまりをもった傾向をしだいに失ってきたということも原因になっていると思われる。かつて労働者階級は革新政党を支持し社会主義を志向するものが多くを占めていた。ところが高度経済成長をへるなかで革新政党支持率が減って「支持政党なし」という者がふえ、社会主義を志向する者は少数となった。昭和40年代中ごろにおこなわれたいくつかの民間組織労働者の意識調査をみてみると、「望ましい社会体制」として「社会主義」をあげている者はわずか一割前後にすぎず、多くの労働者は「資本主義の改良」をあげ、また「現状でいい」という者も一割前後を占めている、という結果が出ていた。この傾向は今日にもひきつがれている。こうして「労働者階級」としての政治意識は解体傾向をとり、しだいに茫漠としたものとなって拡散し、そのことが反面で「中間層」特有の政治意識をつかみにくくさせている。
活発な世代間の社会移動
「中間層」をつかみにくくしている理由は、ほかにもある。そのひとつは、日本社会における社会移動の頻繁さである。日本では江戸時代から家業が三代続くのはめずらしいといわれてきたが、「中間層」の家族が「中産階級」として社会の中に確立された地位を世代を越えて保持していく例は、多くない。階層間の移動が活発におこなわれている社会なのである。
たとえば富永グループの調査(1975年)から、現在「管理」職に就いている人たちの父親の職業は何だったかをみると、「管理」職だったというものはわずかに22%にすぎず、あとはさまざまな階層の職業だったのである。また「専門」職にしても、父も「専門」職だったものは26%にすぎない。
他方、「半熟練」職の人たちの父親の職業をみると、やはり「半熟練」職だったというものは10%足らずであり、「熟練」職だったものが約10%、「事務」職や「管理」職や「専門」職だったものはあわせて12%もいる。また、世代間における職業移動の率を算出した研究によると、1955年→1965年→1975年と、調査時点が新しくなるにつれて移動率は高くなっているのである。このような社会移動の活発化が、肥大化する「中間層」の実体をますます不鮮明にしている。
社会的地位に一貫性がない
さらにもうひとつ、「中間層」をひとつのまとまりある「中流階級」としてつかみにくくさせているのは、わが国における「社会的地位の非一貫性」の高さである。財産とか収入とか威信とか権力とかという「地位特性」のどれもが高ければ、その人たちは社会の「上流階級」を占めるものとして明瞭にとらえられよう。またそのどれもが低ければ、「下層階級」とみなされよう。さらに、どの「地位特性」も中位にあるような人びとの群があれば、それは「中流階級」とみることができよう。そしてその社会は、上o中・下の区分がはっきりとつけられるような、階級序列をもった社会としてとらえられよう。
ところが富永らの調査によれば、「地位特性」のどれもが高い人びとも、どれもが中位の人びとも、どれもが低い人びとも、実は少ないのである。どれも高いという人びとは11%、どれも低いという人は30%で、あとの大部分の人たちは、たとえば財産や所得が大きくても威信は高くないとか、威信はあっても所得はそう高くないとかというように、「地位特性」に一貫性が欠けているという。
このように「地位特性」の高さがちぐはぐな人たちが集まってそれとなく中間的な部分が形成されている、というのが日本の「中間層」の実体のようである。この意味で富永が「階層構造の現状を『大部分が中間層』ととらえる見方は、このような非一貫の諸パターンがつくり出す相互相殺効果を、いわば遠くから巨視的にながめたものという条件づきで、許容される」と述べているのは、適切な指摘だといえよう。
