大企業のホワイトカラーに焦点を絞った場合、彼らが当面する職業上の不満や障害はなにか。従来よく指摘されたのは、「すまじきものは宮仕え」に表現されるような上下関係であった。しかし、近年は少々様子が変わってきたようだ。組織における支配‐服従関係にかわって、処遇にあたっての厳しい選別が、大きな要因としてのしかかってきているようである。
収入が安定しているというサラリーマンの特性は、長期的な生活設計を可能にするという長所をもたらした。いわば生活と人生を着実に歩むことを可能ならしめるという意味で、安泰志向型の人びとに恰好な職業であると見なされている。しかしこの発想は、実は、もう一つの制度的裏づけによって支えられていたことを忘れてはならない。勤続年数が年功となり、組織のなかでの地位が着実に上昇していくという日本的な雇用システムがそれである。終身雇用が建前のなかで、例外をのぞいて、ブルーカラーもふくめて日本のサラリーマンは、企業組織における地位を漸次上げていったのである。
すでに述べたとおり、大企業ホワイトカラーであるという属性自体によって彼らには十分中流意識が浸透しているわけであるが、組織内での上向移動が確実に展望されることによって、中流意識は確固たるものになる。
組織職業人にとっては、組織の中に自分がしっかりと位置づけられることが必要である。そのためには、役割を完遂し、よい成果をあげることが要件である。役割の遂行と期待される成果実現とは、組織からの承認をうけ、組織の中に位置づけられるための必須の要件である。しかしその際、役割の完遂と成果実現それ自体で十分な充足感を味わえる人は、どれだけ存在するであろうか。なんらかの評価と承認を希望するであろうことは当然として、地位付与という形でそれを求めるばあいが多いのではなかろうか。それよりもなによりも、組織のなかにしっかりと位置づけられ、有力な組織メンバー(キー・マン)であることの証を求めて、役割の遂行と成果の達成に邁進するということがあるのではなかろうか。
組織にとって「存続」は究極の目標であるが、日本的組織にあっては、組織メンバーにとっても成員でありつづけることこそが、8割方の人にとって究極の目的となろう。そのために、組織の中で地位が付与され、より確実なものに構築されていくことが必要なのである。
裁かれるサラリーマン
組織職業人としてのサラリーマンがもつ特性については、従来からいろいろなことが指摘されている。三ズ主義が横行しており、つまりは気楽な稼業だと言われたりもした。欧米のサラリーマンと比べて労働密度がきわめて低いとも言われ、月給ドロボウなどという表現すら眼に止まったことがある。日本のサラリーマンは、会社から、また産業社会から、裁かれてしかるべき存在なのであろうか。
『サラリーマン法廷』というユニークな著作は、サラリーマンの行状的特性を罪という観点で描写している。罪状のリストは次に示すとおりであるが、全くのところ、よく現実を提えている。大別すれば、第一に、組織にたいする無関心の罪というのがある。怠惰、不勉強、シラケのほか、労働ロボットになりはてる、管理されっばなしなどもそうである。第二に、組織に迎合し同調しすぎる罪というのがある。ごますりの追従、会社に帰依しきる、コウモリ的オポチュニストのほか、利益専有、犯罪的企業エゴに加担するなどがある。これと反対に第二に、組織に反抗する罪というのがある。
一般的生態に関して
怠惰の罪、不勉強の罪、シラケの罪、甘えの罪、ごますり・追従の罪、嫉妬とやっかみの罪、卑屈と倣岸の罪、公私混同・職権乱用の罪
特殊生態に関して
名刺そのものになりはてた罪、労働ロポットになりはてた罪
組織とのかかわり方に関して
会社を敵視することの罪、会社に帰依しきることの罪、コウモリ的オポチュニストの罪、管理されっばなしの罪、管理を拒否する罪
対社会的あり方に関して
利益専有の罪、犯罪的企業エゴに加担する罪、親方日の丸的特権乱用の罪、差別と偏見・視野狭窄の罪、後向きのエリート幻想におぼれる罪
(注)享間洋一『サラリーマン法廷』1978年より。
会社を敵視する、管理を拒否するのほか、嫉妬とやっかみなどもそうであろう。そして第四に、組織を利用する罪というのがありそうだ。公私混同・職権乱用、名刺そのものになりはてる、親方日の丸的特権乱用などがそうである。
総じて、組織ベッタリズムの御説御尤型の罪が最も沢山リストアップされている。組織に埋没し、自らの主体性を放棄している点が責められているわけであるが、組織職業人がこういった行動特性をもつ傾向については、従来から多くの指摘がある。リースマンが『孤独な群衆』のなかで類型化した他人(ないし外部)指向型人間、あるいはフロムが『正気の世界』のなかで抽象している市場型人間などは、この範疇に入る。しかしホワイトが『組織のなかの人間』で論じたオーガニゼーション・マン(組織人)こそは、組織職業人がもつ悲哀をみごとに描きだしていると言えよう。
これらは、いずれも組織の側に責任の所在を向けている。ところが『サラリーマン法廷』では、個人が裁かれているのである。
カンパニー・マン
サラリーマンにもいろいろなタイプがあることは自明である。たとえばマコピーは、アメリカ各地の12の大企業から250人の管理職を選び、インタビューとアンケートによって仕事への取りくみ方、個人的な価値観、そして日常的行為などに関する調査研究を重ね、企業人を四つの(心理的)タイプに区分した。クラフツマン(職人)、ジャングル・ファイター、カンパニー・マン、ゲームズ・マンの四つがそれである。
クラフツマンとは仕事の倫理を説き、物を作りあげることを楽しむところの、いわば生産型の人びとである。ジャングル・ファイターとは人生と仕事を闘争と捉え、同僚を味方か敵かに分け、部下を道具として手足に使う。カンパニー・マンは自分を企業組織の一部と認識し、組織の統合性を保持しようと神経を使う。そしてゲームズ・マンは仕事と人生をゲームと考え、新しいアイディアと新しいテクニックで戦略的に取り組むことを指向する。
このような類型化を通してマコビーが主張したかったのは、ゲームズ・マンこそは現代の企業指導者たるに最も適した資質をもっているということであった。現代の企業組織に要請されるのは、様々な競争に打ちかつこと、継続的な革新を遂行しうること、専門家チームの相互依存を確立すること、敏速に動く柔軟性などであるが、これらは(クリエイティプ)ゲームズ・マンによってこそ可能になるというわけである。
こういった認識の背後には、実は、カンパニー・マンにたいする消極的な評価が存在する。彼らは、「自己の個人的利害を、企業の長期的な発展や成功と同一視する」のであり、組織の潤滑油として自己犠牲的にふるまうが、ただそれだけのことであり、企業の力強い発展に資することが少ないと断ずる。しかし、組織を利用して自己の地位を高め、部下たちを道具としてしかみない管理者にくらべたら、罪は軽い。ましてや、組織の名声やそこでの肩書におぼれ、いかにも自分に能力が備わっていると誤認している組織人タイプは、「後向きのエリート幻想におぼれた罪」によってサラリーマン法廷で裁かれるに値するように思えるのである。わが国では、どんなサラリーマンが高い評価を受けることになるのであろうか。
仕事の能力
組織の中で職業活動を遂行する人びとに、基本的についてまわる要素が三つある。仕事と人間と階層がそれである。サラリーマンはまず、仕事をしなければならないし、仕事のできる人間にならなければならない。
仕事をする能力がなければ、サラリーマン失格である。会社や上司はむろん、同僚や後輩までが、仕事をちゃんとやっているかどうか、仕事ができる人間かどうかをつねに評価している。
それにしても、いったい仕事ができるとはどういうことを意味するのであろうか。当面する業務や課題に関して知識と技術を持っていることは当然に必要であるが、それで済む問題ではないようだ。自他ともに有能と認める二人のサラリーマンは、こもごも、つぎのような点を挙げている。
《問題のポイントを的確に掴めることだ。状況は何を要請しており、どんな方向で問題を解決していけばよいのかを洞察できること。》
《問題の処理に手ぬかりや抜けがないことだ。関係する部署からは十分に情報を集めていて、どんな角度からの問いかけにも返答ができる。他にもいくつかの処理案が準備できている。要するに行きとどいている。》
《どこかこれまでと違う新しい線をうちだせることだ。ありきたりでないことだ。》
《手段と方法と計画をしっかりともちあわせていること。しかもそれは現実的で具体的だから、すぐ行動にうつせる。そこがポイントだ。》
仕事とは合理的なものであり、経済計算と技術法則に支えられている。そういった論理性や法則性をよくわきまえていることは、仕事ができる人間にとって不可欠な素養となるであろう。品質、コスト、能率、時間、そしてまた情報などについて、その有用性と運動原理によく精通していることなしには、よい仕事を成しえないであろう。計画、進行管理、評価。統制のサイクルを確実に、かつ冷静・客観的にまわしうる能力と態度もまた、効果的な仕事の達成にとって必須である。こういった素養や能力をよく備えているか否かを、仕事人としてのサラリーマンはつねに考課されているわけである。
協働し、協働させうる能力
サラリーマンには、仕事の能力と並んで、もう一つ枢要な能力が不可欠とされる。対人関係の能力とでもいったらよいのであるが、人びとと一緒に(協調し協力して)仕事ができること、人びとに影響を与えうることなどに係わる能力のことである。端的にいって、人嫌いでは組織人として勤まらないということである。
およそどんな職業にも対人関係はつきものである。しかし人間の問題というのは、とかく神経を使うし、常に具合よく運ぶとは限らない。煩わしい代物でさえあり、仕事の上で対人間題がなかったらと念ずる人だって多いはずである。
たとえば「現在の仕事以外に、以下の仕事のうちどれがもっとも自分に向いていると思いますか」ということで、指揮者、バーテンダー、表具師、テニスコーチ、殺し屋、乞食という6職業が列挙されたとき、ひとはどれを選択するであろうか。表具師をあげるばあいが結構多いのであるが、それは何故か。「……表具師だって結局は最後、人間との、注文とかそういうことがあるだろうけど、他は全部人間との関係があるし、表具師だけは関係ないから。ぼくは、人間が好きだから(笑)」ということらしい。このばあいは笑いで済まされているからよいが、対人恐怖症に悩む人のばあい、ひとが信じられなくなっている人のばあい、対人関係は苦しみ以外の何物でもあるまい。
ともかく組織職業人にとって、協働や共同行為は不可欠な要素である。他人から情報、アイディア、助言、協力を得、また提供する。一緒になって考え、感じ、行動する。行き違いや対立・葛藤にも直面するだろう。そういった現実をふまえて、ひとは相互理解を深め、信頼しあえる関係を作っていく。
これなしに真の協働はありえないが、それには、相応の学習と訓練が不可欠であり、この面の能力向上と態度開発とを必要とする。
