高額所得者の職業
高額所得者の職業

毎年のことながら5月になると、前年度全国の長者番付が発表され、 マスコミが賑やかに報道する。土地成金というカテゴリーをふくめて、億万長者としてリストアップされている人びとは、それなりに類型化されている。大会社の社長ないし事業家、開業医、人気作家、家元、タレント、そしてプロスポーツ選手たちである。

これによってみれば、億万長者といわれるほどの所得をあげるためには、それなりの職業に就くことが必要だと察せられる。一介の会社員や教員であったり、町工場の主人や商店主であったりということでは、他人を驚かすほどの高額所得を稼ぎだすことは難しい。それはまた、裁判官、官僚、代議士、弁護士などについても同様である。並の活動ぶりでは、1000万円は獲得できても、2000万円をこえる年収を稼ぎ出すことは困難である。つまり雇用者の場合は、職業を通じて高額の年収を得ることは、そう容易なことではないわけである。

もっとも現代は、余技が金になる時代である。会社員が小説を書き、棋士がレコードを吹きこむことを通じて、セカンドインカムが本業インカムをこえるケースがある。しかしこれは、社会的に目立ちはするけれど、数はごく少ない。あまり一般化することは避けた方がよさそうだ。

このことは、実は高額所得者全般についても言えることではなかろうか。所得と職業との間に相応関係が存在し、○○の職業では△△の所得水準止まりであろうという関連は、厳に存在しよう。しかし、いざ高額所得者ということになると、職業そのもの以外の要因が働いてくる。職業が媒介になるにしても、当人の能力と努力、そして運といったものがうまく絡み、これが当人を億万長者に仕立てあげたという側面は大きいようだ。医者にしても勤務医と開業医では違うし、開業医なら誰でもが高額所得者というわけでもない。むろん、タレントや作家やプロスポーツ選手ということになると、一握りのトップスターだけが高額所得者なのである。

その意味からは、経済的資源の獲得にとって、特定の職業がことさら有利であるということはなさそうである。

高額所得につながる職業的要件

高額所得が特定職業と連動しないといっても、所得がもっばら本人の努力と能力に依存するというわけではない。

一定の職業的要件は必要となるであろう。たとえば鉄道員、教員、大工、セールスマン、保母、自動車整備士などの、いわば標準的職業に就くことが基盤になっているかぎりにおいては、高額所得とは無縁である。収入面で優位に立つには、それなりの職業的要件をもつことが必要だろう。

従来から事業家ないし企業の経営者は、高額所得者の一つのカテゴリーをなすと認識されてきた。確かにそうかもしれない。大企業の社長は平均的に6000万円をこえる年収を手にしている。平取締役たちの平均年収が1500万円を割っていることからして、企業体ヒエラルキーのなかでも、社長の位がいかに高いものであるかがよくわかる。当該企業から給付される役員報酬もさることながら、他社株をふくめての株式配当が大きな比重を占めている。つまり役員の相互乗り入れがなされ、その分だけ収入は急増する。そのうえ、交際費その他の付加給付が厖大な額になると予想され、大企業のトップ経営者が経済的に恵まれていることは確かであろう。

ところで大企業経営者や事業家の所得は、所属する企業体によって支給される。彼らが高額所得者でありうるのは、現代産業社会における大企業の地位が高いことに由来する。つまり本人が自分のカで稼ぎだすというより、大きな収益をおさめた企業体から提供されるという性格をもっている。難関をのりこえて社長の座を射とめたのであるから、本人に力量があることは実証ずみなのである。だが自分の腕一本で、あるいは本人の職業的努力のたまものとして″稼ぎだした″という性質は、どうしても薄くなる。

それに事業家や企業体にあっては、経済的利益を稼ぎだすこと自体が目的になっている。その意味で事業家や企業体首脳が、その目的を達したことによって経済的に高額の報酬をうけるのは、当り前なのかもしれない。高収入に結びつく可能性をもった職業を考察する場合は、事業家や大企業経営者たちは除いて考察するのが妥当かもしれない。それではどんな職業的要件が、高額所得に結びつく可能性をもつのであろうか。これはあくまでも可能性であり、本人がこれによく適応しうることが必要であるが、一般には、つぎの二つの要件が抽出できるであろう。

(1)高度の専門性を発揮しうる自由業的職業帰属組織から固定的に報酬が付与されて終わるのではなく、当人の努力と能力で収入を付加させうることが不可欠である。株の仲介人やタクシー運転手をふくめて、ひろく営業職には歩合制が施行されているが、要は専門性が高いことによって独自性を発揮しうることが必須要件である。

(2)そのアウトプットが広大な市場性を有する職業職業を通じてのアウトプットが市場性の高いものであることは、高額所得の要件として重要である。いかに専門的にすぐれた著作でも、大量に売れなくては印税収入にならない。人気作家やタレントは、テレビというマスコミに市場をもつので、報酬はもう一般の基準では計りきれないのである。

職業と収入の一般的関連性

「職業的市場では、社会的貢献と報酬との間に一定の相応関係が成立していることが前提になっている」という点は、どれほど確からしいか。

職業的市場も需要と供給の関連で成立している以上は、貢献と報酬との間に一定の相応関係が成立しているはずである。むろんこれは需給関係が均衡していることが前提であり、たとえば食うためには職業を選んでいられないといった状況では、当然に成立しない命題である。それに社会的現実と照合しようとするならば、逸脱のケースは沢山存在するだろう。しかし前提条件という視点で認識するならば、そしてまた一般的法則性という角度から現実をみるならば、鍵のところは一つの命題となりうるだろう。

私の説くところは、およそこんな具合であった。だが学生たちは、納得しなかった。現実感覚に合わないという。そもそも社会的貢献という概念が曖味だというここで社会的貢献とは、いうなれば社会的需要に応えて、社会的効用を果たすことである。換言すれば、社会が要請する機能的要件によく応えるということである。質量的に大きな社会的効用に応えたとき、社会的貢献はそれだけ大きかったと言うわけである。ただし、いかに社会的需要が大きくとも、それに応えうる人的資源や制度的枠組が大量に準備されていると、一単位当りの報酬は小さくなる。数千万人にも達する野球ファンの期待にこたえ、 一本足打法でホームランの新記録を樹立することは、野球王国の日本では社会的効用がきわめて大きいのである。これに応えうる供給側の条件として、王選手は余人をもって代えがたい。それだけに報酬は高くなる。国会議員が果たす社会的機能の方が、あるいは王選手のそれより重要かもしれない。だがその社会的効用は、400人以上の人物と、さまざまな制度的枠組(たとえば議会、法律など)で果たされている。 その分だけ、報酬は差し引きとなるのである。

こういった論議は、果てるともなく持続するわけであるが、最終的に学生たちと私との間で了解に達したのは、「報酬」を広雛に解釈することになったからである。経済的のみならず、さまざまな精神的報酬を加味してとらえるとき、「社会的貢献と報酬との間には、 一定の相応関係がある」ということになる。

従来、社会的貢献というのは、もっぱら供給側の投入量に視点をすえて理解されてきたようである。つまりどれだけの時間と労力を払っているかが、社会的貢献の大小を規定すると認識されているわけである。このように解釈すると、原稿のマスロを埋めるのにこれほどの時間と労力を投入している私などは、もっと高額所得を得てよさそうである。しかし、社会的需要に応えていない原稿をいくら書いても、高い社会的効用につながらない以上は、不平の一つも言えないのである。

それでも、供給者の投入質量が社会的貢献の質量と一定の相応関係をもつことも事実である。そこで一般には、熟練者の方がそうでない者よりも、そして高学歴者の方が低学歴者よりも、賃金は高く設定される。しかも一般には、高学歴で熟練している者が、より高度な職業に就く。そこで非熟練的職業より熟練的職業の方が、また事務的職業よりは管理的職業の方が、総体的にみて、平均的所得が大きいことになる。

しかしながら過去20年間の高度経済成長期を通じて、「分配の民主化」が進行し、「職業の所得格差はかなり減少してきている」ようである。「日本社会の所得分配は学歴主義や職業的役割遂行に代表される業績主義などによって規定される度合が小さいことが明らかに」なったとも結論づけられよう。確かに職業ごとの所得格差は縮小していくといえよう。いまや高額所得は、おそらく職業をベースにしてであろうが、セカンド・アクティビティに依拠する時代になっているかと推察される。

つまり現代における富裕度は、つぎの二点によって増幅されよう。第一には、セカンド・インカムを成就しやすい職業的地位に就くことによって高まるという点である。第二には、大企業重役のように、所属組織からの経費支出が公認されうる職業的地位に就くことによって増進されるという点である。