中流階級についての昭和30年代の論議
中流階級についての昭和30年代の論議

戦後の日本をふりかえってみると、昭和30年代の中ごろにも「中流階級」ないし「中産階級」にかんする話題が大きくとりあげられたことがある。当時は戦後経済復興が終わり、昭和30年代初頭の好況のなかで高度経済成長が準備され、耐久消費財がそろそろ一般の家庭にも普及しだした時期であった。その当時に発行された大河内一男『日本的中産階級』は、次のような文章ではじまっている。

《長らく「中産階級の没落」が、公式ででもあるかのように、尊重されてきたが、それをもう一度見直してみなければならない時期になっている。どうやら、「中産階級」は「没落」しないで済みそうにもみえる。いやそれだけでなく、日本の「中産階級」にはそろそろ陽があたりはじめているのではないかと思われるほど、「中産階級」が、最近では、話題の人気ものになっている。自民党の指導者たちも、「中産階級の育成」を採りあげはじめているし、民主社会党なども、労働階級を中産階級化することが、社会主義政党としての狙いだと主張している。……これまでの労働組合運動や社会主義運動が、少々公式の虜になりすぎて、「中産階級」というものの存在から眼をそむけていたことは確かだし、そうした階層の利害やものの考え方を、たとえ戦術的な考慮からであるにせよ、もっと現実的な態度で、カウントに入れて来なかった点は、何れにせよ反省されなければなるまい。》

中流階級ないし中産階級が当時このように注目されてきたとき、社会科学の研究者の多くは、日本社会に中流階級ないし中産階級が育っていくという議論にたいして、批判的ないし否定的な見解をとっていた。社会科学のなかには、この階級の概念規定をめぐっていろいろと異なった立場があるが、そのどの立場からも、だいたい、批判的、否定的な見解が出されていた。

中流階級論には批判的

たとえば、マルクス主義の階級論に立って「都市中産階級」の存在条件の変化を分析した田沼肇は、それが「独占資本主義のもとで従属し、あるいは転落」していくと論じ、マルクス主義の伝統的見解を再確認した。また、国勢調査結果をもとに日本の社会構成の変化を観察した江口英一と山崎清は、「中間層」を「生産手段の所有と生産者との一致という古い意味でのそれでなく、いわば所得の上向と下向のはげしい運動のなかでの均衡点上での、きわめて相対的な意味での存在」としてとらえたうえで、「あまりに低い所得層がおびただしい量を以て存するが故に、それは中間層なのであり、なんら実体をもたないものに近い」という把握を行なった。

また、職業と社会階層の実証研究をおしすすめていた尾高邦雄は、職業、収入、耐久消費財、財産、階級帰属意識、階層帰属意識という複数の指標を組みあわせて「最上層」「中産階級」「准中産階級」「中間層」「下層階級」という五つの層を構成し、それぞれの量的分布を測定して、「最上層」がますます上昇し、「中産階級」とそれ以下の部分とのあいだには、以前にもあった断層がしだいに拡大しつつあるようにみえる、という結論をひきだし、さらに、均質化が外見的にはあらわれているようでも実は内部で階級間格差や階級内競争が深刻化している、と指摘した。

昭和30年代中ごろにだされたこれらの発言は、(従属ないし没落〉〈存在の不安定さ〉〈上層との格差の拡大〉などというように、当時浮上してきたバラ色の「中産階級」論にたいして、批判的ないし否定的な見地を示していたのである。

高度成長下における「中」意識の増大

これにたいしてその後の現実の展開はどうだったであろうか。高度経済成長をへて今日にいたるまでの間に、「中流階級」ないし「中産階級」とよばれるものは、日本社会のなかで育ってこなかっただろうか。

すくなくとも階層帰属意識の推移からみる限りでは、自分の生活程度を「中」程度とみる人たちは、この間に着実に増加してきた。総理府「国民生活に関する世論調査」の結果を時代を追ってみてみると、昭和30年代の中ごろを境にして、これが大きく伸びだしたことがわかる。この調査で、自分の生活程度を「中の上」または「中の中」と答えた人と、「中の下」または「下」と答えた人とをくらべてみると、昭和三十三年時点では40%対49%で後者の方が多かったのに、36年時点では45%対44%ではぼ同じとなり、39年時点になると56%対40%で前者の方が多くなり、その後はますます両者の差はひらいて前者が顕著に優位になっていく。そして昭和五十六年時点では、「中の上」と「中の中」をあわせた割合は62%で、「中の下」と「下」をあわせた33%を大きく上まわっている。

労働者のなかの「中」意識

この傾向は労働者階級だけをとりあげてみても指摘できる。昭和三十年に尾高邦雄らが行なった「日本社会の成層と移動」調査の結果をみると、事務系労働者においてはすでに「中」意識が「下」意識を上回っていたが、生産労働者のばあいにはまだ「下」意識が支配的だった。ところが昭和37年に行なわれた立教大学産業関係研究所「大企業ブルーカラー・ワーカーの生活と意見」調査では、生産労働者の三分の二が「中」意識を示してL夕。当時官公労働者の間では民間大企業労働者にくらべて「中」意識は概して少なかったが、それでも昭和五十年ごろを境に、「中」意識の持主が「下」意識の持主を上まわるようになった。労働者を「無産階級」「窮乏化したプロレタリアート」「貧困層」などとしてとらえると、当の労働者の生活意識からかけはなれた議論になりかねないという現実が、ここにあらわれてきたのである。

だが、このように「中」意識の持主がふえてきたからといって、日本の社会構造のなかに「中産階級」とか「中流階級」とよばれる階層が定着したといえるのだろうか。

多義的な「中流・中産・中間」ということば

このことを検討するには、「中流階級」とか「中産階級」とか「中間階級」とかというものが、どんな概念でとらえられているかを、あらかじめ整理しておいたほうがいい。このことばは社会科学のなかでも実に多義的に使われているからである。

マルクス主義の立場にたつ社会理論においては、「中間階級」ないし「中産階級」は「資本家階級」と「労働者階級」の中間に位置する諸階層の総称である。それは雑多な部分から成りたっているという意味でひとつの「階級」としては把握できないという見地から、「中間階級」ないし「中産階級」ということばをあえて用いずに、「中間層」という用語を使う人もいる。いずれにせよその実体は、生産手段を所有しているが他人の労働に依存しない経済活動を行なっている諸階層、たとえば自営農民や手工業者や小商人などのことである。そしてさらにそれに加えてホワイトカラー層をとりあげてこれを「新中産階級」ないし「新中間層」とよぶ人もいる。

他方、生産手段の所有関係のいかんをぬきにして、収入や資産の大きさから人口を区分してえられた各グループを階級とよび、そのなかで中間に位置するグループを「中間階級」「中産階級」とする考え方もある。ここではそれは「富裕階級」と「貧困階級」の中間にくる。また、収入や資産の大きさの違いが各グループ間に生活様式の質的な差異をともなっているとみるときには、「上流階級」「中流階級」「下層階級」といった階級区分を行ない、その中間部分をたんに「中間」的な階級ではなく、それ自身独特な生活スタイルと意識をもった「中流階級」「中産階級」としてとらえる。

さらに、職業の威信からみて社会をいくつかの階級に分けて分析する立場もある。この場合には職業を威信の高さによって格付けし、威信の高さの順位からいって中ぐらいのところにくる職業群をとりだし、そこに働く人びとを「中間階級」とみなすのである。このとらえかたはアメリカ社会学のなかで発達した社会成層研究において展開された。

「中産階級」とか「中間層」などといっても、そのことばの意味するところはこのようにまちまちである。日本社会でそれが増えたかどうかを議論しようとしたら、まず最初に、どの立場から事態をみるのかをはっきりさせておかないと、混乱がおこる。

そこで、右にあげた三つの立場のそれぞれから、「中間」の階級ないし階層がはたしてふえたといえるかどうかを観察してみよう。